開湯400年遠刈田温泉物語  小野さつき訓導物語  むかし話



 四方を深い緑の山々に囲 まれ、湯けむりが揺れる静かな温泉街、遠刈田はかつて湯刈田と呼ばれ、古くから信仰登山の基地や湯冶場として知られてきた。
 遠刈田温泉の発祥の由来には、いくつかの説がある。一説によれば、鎌倉時代、現在の栗原郡金成町に住んでいた金売橘次・橘内の兄弟 が、岩崎山(籠山)金抗を発掘中に霊泉を発見したのが始まりといわれている。 また別の伝説では、不動滝に住む大ウナギが三階滝の大ガニとの戦いに敗れ、その時に切られた尾が、この地に流れつき、それが足腰の病に効くようになったと伝えられている。しかし、史料によると金の採掘が始まったのは慶長年間であることから、温泉の発見も実際はこの頃であったと推定される。
『刈田郡誌』には、江戸時代のはじめ「此湯、初、蒲生氏郷に仕えありし大沼某の四世の孫、勘十郎こ の地に移住し、慶長6年(1601年)温泉を 発見したるものにして、上の湯、下の湯即ち之なり」との記録がある。また、東の湯は元文5年(1740年)に発見されているとあり、 慶長から元文の間に、遠刈田 温泉の沸出口3ヶ所が発見されたことになる。

 藩政時代の遠刈田温泉は、同じ蔵王山麓にある青根温泉や鎌先温泉に比べて、それほど有名ではなかったらしく、藩主が立ち寄って いないことなどからみても、地方の療養温泉にすぎなかった。
 しかし、明治になって蔵王が爆発噴火を起こすと、恐れの念からか、人々は、翌日から熊野嶺の 神祠および刈田嶺の神祠に詣でることを「おやがけ」と呼ぶようになり、信仰登山が盛んになった。
 また、大河原から遠刈田までの交通の便がよくなったことなどから、遠刈田温泉は一躍 有力な温泉郷となる。明治35年に発刊された『遠刈田みやげ』と いう小冊子には、「秋は最も盛んなる時にして刈田嶺神社に参詣がてら、遊湯するもの引きも切らず、1日にして実に1千人より3千人ほど の新来の客あり、喧騒書夜の別なく、宛ら不夜城の如し。
 大正5年の浴客数は決して10萬人を下らず−(以下略)」と記されている。
 また当時、遠刈田には18軒の旅館があり、温泉は上湯、中の湯、瀧の湯、東の湯の4口にそれぞれ浴舎が設けられ、旅館の内湯は2ヶ所のみだったという。しかし、登山期の遊湯者は 1日1000人から3000人におよび、街にはさまざまな店が立ち並び、「純然たる小都会の観を呈していた」という記述も残されている。
 『仙南仙北温泉遊記』には、「夜の遠刈田」と題する一節があり、上の湯、 中の湯、瀧の湯の3浴場を村の中心とし、旅館や民家がそれを取り囲み、正確に碁盤の目なりに軒を並べている街の様子が記されており、当時の町並みがしのばれる。
 泉のお湯は、多くは食塩水 および硫酸ナトリウムを主体とするもので、柔らかい湯質は神経痛やリュウマチ、婦人病などに効用があるといわれ、いまも多くの人に親しまれている。また、遠刈田にある湯神神社は、温泉の神として地元の人々によって大切に守り継がれてきた。 現在も毎年土用の丑の日にはまつりが開かれ、神事を行った後、温泉への感謝と商売繁盛の祈願がされる。
 遠刈田温泉はいまや県内でも屈指の観光地として、各地から多くの人が訪れている。このため、まちでは遠刈田温泉のよき伝統を守りまがらも、より魅力のある温泉地をめざして、新しいイベントにも 取り組んでいる。
 平成9年度から始まった遠刈田温泉朝市には、地元の野菜をはじめ、山菜や漬物、地鶏卵。手作り ジャムやジュースの新鮮な食材が並ぶ。浴衣姿に下駄を鳴らして訪れる宿泊客も多く、活気のある声が飛び交い、地元の人たちとのふれあいを楽しめる朝市は、 遠刈田温泉の新しい名物となりつつある。

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